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zoom RSS 『日出処の天子』

<<   作成日時 : 2011/02/10 17:41   >>

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山岸涼子さんの『日出処の天子』と言うマンガに出会ったのは、
確か、とあるテレビ番組の何処かの社長紹介の中での事。

この『日出処の天子』と言う言葉は、
まるで〜『言霊』〜のように私の心に響いてきた。
《これは、最近の志の乏しい、不甲斐ない政治家や国政、外交に対するやるせない憤懣から来るものだろうか・・》

物語のストーリー展開には“やや”と言うか・・
“非常〜に”驚かされた。
何せ、日本人なら誰でも知っている厩戸王子《聖徳太子》を、超能力者の天才と表しながら、こともあろうか何とも悩み多き、同性愛者(?)の俗人が如く描いている

聖徳太子と言えば、“冠位十二階、十七条憲法、遣隋使、近いところで、旧一万円札、兎に角、聖人君子のような良い人”と言うイメージしか想像出来なかった私の頭の中の混乱は、この山岸さんのイメージするところの厩戸皇子(聖徳太子)によって、「ひぇ〜!!うっそ〜!!・・ウ〜ム!こう、くるか??・・信じられな〜い!!」と言うくらいの、驚きに満ちた心の悲痛を訴えてきた。 

これは何処から来る発想なのと言う思いから、ネットで見つけた、藤巻一保さん著の《厩戸皇子読本》と言う本を読んでみる事にした。

すると、「なるほど、なるほど!」
確かにたくさんの伝暦や、謎や、不思議なエピソードが、後から後から、誇大広告じゃあるまいに、たくさん紹介されていた

その当時の日本が、諸外国との交渉を速やかにするためには、まずこの国自体が、天皇を中心に、一つにまとまる必要があると太子は考えたのでしょう。
島国である日本は、何時の世も、より良い変化と成長を成し遂げるために、大国からの影響を、たくさん取り込まなければならなかったのだから・・
正治も、経済も、学問も、技術も、そして、宗教という精神力の要までも・・

≪民意を味方につけるためには、カリスマ性と宗教心、そして陰陽道などの超常現象を学び、それを利用することが、手っ取り早いと言う事か・・!?などと、うがった見方はしたくないが・・≫ 

その時代、既に巨大な勢力や財力を持っていた、神教中心の豪族達に対抗するためには、、大国から持ち帰った仏教や知識は、必要不可欠だったと言う事は、私の脳細胞でも理解できます

しかし、厩戸皇子の誕生がイエス・キリストの誕生に似ていると言うことは、面白い。
イエスも馬小屋で誕生し飼葉桶に寝かされていた
死後の復活も・・??
本書の中での“皇族の王子しか着用しないという黄色の服を身に着けた遠目に見る人影らしいの姿”は、死後の復活した太子の姿を表していたのでしょうか
イエス・キリストも復活しています
聖人たる者の“小さな共通点”でしょうか 

また、非常に大きな不満もあります 
それは、太子と膳部菩岐々美郎女との最後の死の場面です
その場面が、すっぽり抜け落ちている
まるで源氏物語の『雲隠れ』の場面を彷彿させるような終わりかたには・・

ここまで大胆な空想の展開を見せながら
・・《何・故・?》・・

母である、間人媛の葬儀から3ヵ月とたたぬうちに、太子と后がほぼ同時に亡くなっているのですよ
誰だって“不・思・議”を感じ、“ここぞ”と思えるくらいの度肝を抜かす、山岸マジックを見たいじゃないですか
見たい場面が見られない憤りを一体、何処にぶつけたらよいのでしょうかねぇ〜。 

取りあえずの例として、藤巻著を調べてみると、そこにはこう書かれていた
『推古天皇二十九年辛巳(かのとみ)【太子五十歳】の春二月
太子は斑鳩宮で妃に命じて沐浴させた。
自分もまた沐浴して、新しい清潔な衣と袴を身につけ、妃に向かってこう告げた。
「私は今夕、遷化します。
そなたも私と共に、この世から去りましょう」
妃も新しい清潔な衣装を身にまとい、太子に添い寝して横たわった。
翌朝、太子と妃は、いつまでたっても起き出してこなかった。
近習のものが寝室の戸を開き、二人が遷化した事を知った。』と・・
なんとも、平和で、美しい最期ではないか
太子の子孫達とは、大違いである

膳部菩岐々美郎女については、山岸マンガと藤巻著では、随分異なるイメージであった
山岸マンガは、知っての通り“痴れ者の乞食”“母の間人姫に似た気狂いの少女”
しかし、藤巻著の中での太子の言葉は
「そなたは、まるで私の心のようだ。何を行うにも、私の心に反すると言う事が無い。そなたを妃に得たのは、私には幸いであった。死んだ後も、共に同じ墓に入り、共に埋もれよう」とまで書かれている

つまり、妃の人となりは聡く鋭敏で、物事をよく察する力があり、その振る舞いぶりは、まさに太子の意のようであった。(〜まるで、源氏の紫の上のような〜)それ故に、太子は妃をますます寵愛し、同じ墓に入ろうとまで仰せになった。そこまで評価している

この両極端の発想の違いには驚くばかりだが、
余談ではあるが藤巻著の中で、太子が神馬と言って愛した《驪駒》の最後は、感動ものだった。

『太子が亡くなった日に、驪駒が悲しそうに嘶いた。
水も飲まず、草も喫(は)まなかった
太子が用いていた鞍を背に乗せると、棺を乗せ興に従って、墓までついて来た。隧道を塞ぐと、驪駒は墓に目をやって大きくひとつ嘶くと、一躍して斃(たお)れた
群臣は驪駒の忠心に感じ入り、屍を持ち帰って中宮寺の南の墓に埋めた。』

これまた、なんとも泣かせる忠義ぶりだ  





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