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zoom RSS 平 清盛 のすべてがわかる本   中丸満 

<<   作成日時 : 2012/04/07 17:53   >>

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『 平 清盛 の すべてがわかる本 』   中丸満 

この本を開くと、最初のページに
「華麗なる少年貴族・清盛」と書かれていた。
「 びっくり 」である。
何せ、NHKの『平清盛』は、みすぼらし過ぎる。
同じ平安時代でも、『源氏物語』とは雲泥の差である。

この本の文章を借りると、
清盛の出世振りに、貴族たちが 「 花族(摂関家に次ぐ清華家の家柄)のようだ 」 と いぶかった時に、清盛の出自を知っている 鳥羽院 だけは 「 清盛は花族に劣らない 」 と 述べたという。
名前の由来 についても、白河院 の熊野詣に従った 忠盛が、赤ん坊の様子を伝えようと、道端にあった山芋を見て和歌に託し「 いもが子は はふ程にこそ なりにけれ 」と詠むと、白河院 はすぐに気づき「 ただもりとりて やしないにせよ 」 皇子であったため(忠盛がそのまま引き取って養育するよう)命じたという。
「忠盛」と「ただ盛り採る」をかけているのも面白い。
その後も 白河院 は、それとなく 皇子(清盛) を気にかけていて、ある時 皇子が、あまりに夜泣きが激しいと聞いて、忠盛 に 「 夜なきすと ただもりたてよ 末の世に きよくさかふる こともこそあれ 」( その子が夜泣きしても大事に育ててくれ、忠盛よ。将来、平家を繁栄させてくれることもあるかもしれないのだから )と、歌を送ったと いう。
そして この歌の下の句にある「きよくさかふる」から
『清盛』と、名づけられたと 語られている。

NHKでは、得意の舞の場面で貴族たちの嫌がらせを受けた忠盛でしたが、忠盛の優れた才能は、舞 ばかりではなく 和歌 や 音楽、古典文学 にも通じていたとあります。
管弦 では 笛 をよく吹き、『小枝』という笛を 鳥羽院 から賜り、それを子の 経盛 に譲り、さらに孫の 敦盛 に伝わったことが、 「敦盛最期」 に見えると書かれています。
読み進むと、忠盛のすばらしさは 光を増すばかりです。
武力、財力 ばかりでなく、知力 もまさり、有名な 海賊討伐 の華やかな 凱旋パレード、一説には「 彼らの多くが海賊ではなかった 」という。
忠盛にとっての海賊討伐は、“西国の武士との主従関係を強める機会”であると同時に、“平家の武勇を京の人々に誇示するためのパフォーマンス”であったという。 忠盛 は朝廷から賞が与えられ、その譲りによって 清盛 は十八歳にして、祖父 正盛 がなかなか超えられなかった“五位から四位への壁”を、やすやすと越えた、と言うのだから、これが本当の話ならば、すごい 知恵者 である。
清盛の昇進は、白河法皇、祇園女御 の引き立てによるものだったと言われるが、このように、忠盛との父子関係による昇進という点も特徴的である、という。
順風満帆に見えた清盛の最初の試練
祇園社での喧嘩が強訴に発展する。「 忠盛父子 」をかばう「鳥羽法皇」に、大義名分論に基づいて有罪を主張する「藤原頼長」。結局、罰金刑ですんだが、『祇園社乱闘事件』で政治的な挫折を味わった清盛に、異母弟 家盛 との跡目争いが ひそかに始まる。しかし、その異母弟も 鳥羽法皇の熊野詣に、病を押して同行した無理がたたって病死してしまう。
それによって清盛の家督としての立場は不動のものとなった。

清盛と厳島神社との出会いは、『古事談』に 清盛 が高野山大塔を造営していたとき、自ら材木を運んでいると 弘法大師 の化身である僧が現れて「厳島に奉仕するよう」に勧めたという。
平家一門が厳島神社に奉納した平家納経の 清盛 自筆の「願文」にも「 夢感誤り無く、早く子弟の栄華を験(あらわ)す 」(夢のお告げどおり一門に栄華がもたらされた)と述べられている、という。
忠盛 の死には、あれだけ平家を嫌う「悪左府」 藤原頼長 が、「 巨万の富と多くの家人を持ち、人に勝る武威を身につけながら、性格はあくまで慎み深く、贅沢な振る舞いは無かった 」と日記に記していたとは 驚きです。

『 保元の乱 』、鳥羽法皇 の臨終を契機に、父と子、兄と弟、親族が敵味方に分かれて争う骨肉の戦いが始まる。
天皇家は「後白河天皇」と「崇徳上皇」の皇位継承問題、摂関家は摂政の「藤原忠道」とその弟 「藤原頼長」の主導権争い、源氏は源為義の嫡男「義朝」 対 「父 弟達」、平家は、「平清盛 」対 「叔父の平忠正とその息子達」、合戦はわずか四時間で 天皇方 の勝利で終わったが、清盛 が 従弟 と戦わずにすんだ影には、継母 池禅師 の 従弟 への助言があったという。
乱後、最大の恩賞を手にしたのは、「信西」と組んでいた「清盛と平家一門」であった。
しかし、実際に戦ったのは、 実戦に慣れた「義朝」、清盛 は「金持ち喧嘩せず」で戦いに消極的であったという。
最大兵力を有する 清盛は、「漁夫の利を得た」といえるのか。
この不公平な恩賞に 源氏 は、少納言 信西 (藤原道憲)を恨み、清盛 が熊野詣に旅立った隙に、後白河上皇 を内裏に幽閉し、信西 を殺してしまう。
旅の途中でそれを知った 清盛 は六波羅に戻り、天皇 を内裏から救い出し、宣旨を得たことで、平家清盛 は官軍となって賊徒追討を行い、『平治の乱』を制す。
『平治の乱』は、平家 による 武士政権樹立 に向けた記念すべき一歩となった。
この時、池禅尼 によって助命された「頼朝」、清盛 によって助命された常盤御前の子 「牛若(義経)」によって、二十年後 平家は滅ぼされるとは、皮肉である。
『保元の乱』で摂関家は弱体化し、『平治の乱』で 信西、信頼 が死に、院近臣勢力も力を失ったため、清盛 の政治的地位も急上昇した。
『平治の乱』以後の、「二条天皇」と「後白河上皇」父子の主導権争いに、清盛 はどちらにも気を配って、慎重に行動したと 『愚菅抄』 に書かれていると言う。
「清盛」は「太政大臣」に就任するが、そのわずか三ヵ月後、突如太政大臣を辞任する。
しかし清盛は、前大相国(相国は太政大臣の中国の呼び名)としてこれまで以上に国政に影響力を及ぼすようになる。
その 清盛 が突如病に倒れ、妻 時子 と共に出家する。
この時、平家 に批判的であった 九条兼実 すら「 清盛の病気は天下の大事であり、万一のことがあれば国家はいよいよ衰えるだろう 」と日記に記している、と言うのだから、当時、清盛 に寄せる期待と人望の大きさが伺える。
清盛 の政治スタイルはこの頃から変化する。
六波羅の邸宅を「重盛」に譲ると、摂津国福原に山荘をつくって隠棲した。
清盛 は中央政界から距離をおき、本格的に日宋貿易に乗り出そうと考える。

「清盛」と「後白河」との調和は、寵愛を一身に受けていた「建春門院 滋子」のおかげと言ってよかった。
治天の君である「後白河」にとって、福原にいながらにして政界に隠然たる影響力をもつ「清盛」の存在は煙たい存在でしかなかった。
若い頃からの近臣でもある「信西」は、後白河を「 中国、日本比べる者がいないほどの暗王」「愚王 」といい、父の「鳥羽法皇」さえ「 即位の器量にあらず 」と嘆息したという。
また、信西 は「徳」として、「 自分がこう思ったら、しきたりやルールに束縛されず、必ず成し遂げること。聞いたことは決して忘れず、いつまでも覚えていること 」という。
「自分の意思は貫き通す」と言うのだから、清盛 と衝突するのは時間の問題であった事は言うまでもない。
二人の仲を取り持っていた 建春門院 滋子 が三十五歳で亡くなると、両者の相互不信は、いよいよぬぐいがたいものになっていった。
翌年、『鹿ヶ谷事件』が起こり、平家打倒の謀議が 後白河 を囲んで行われたが、首謀者は平家に捕らえられ、罰せられることとなる。
これにより 後白河 の 清盛 に対する恨みは よりつのる事となる。
暗い事件が続く中、清盛の喜びは、「徳子」の皇子出産、後の「安徳天皇」誕生である。
幕府の創始者、「源頼朝」も、晩年 娘の大姫 を入内させようと血眼になったが、貴族たちにいいようにあしらわれ 失敗 に終わったという。
逆に言えば、幕府樹立後の 頼朝 ですら 叶わなかった 入内 を実現させた 清盛 の政治力と平家の権威が、並々ならぬものであったと言うことになるのであろう。
悲しみは、薄幸の女性 娘 「盛子」の二十四歳の死と、平家の棟梁、性格は 誠実にして温厚、武勇に優れ、悪心を抱く父清盛をたびたび諌めた忠臣と言われた 「重盛」 四十二歳の死 である。
清盛の嘆きは深かった。
しかし「後白河」は、長年 後白河に忠誠を誓った「重盛」の喪が明けぬうちに岩清水八幡宮に遊びに行く有様、嘆きの色さえ見せなかった。
そればかりか、ここぞとばかりに「 盛子」が亡き夫から相続した土地を没収したり、「重盛」が知行していた越前まで没収したりして、清盛の心を逆なでする行為を繰り返した。
清盛 の怒りは頂点に達し、高倉天皇 に即位を迫り、孫の 言仁親王(安徳天皇) を即位させる、という強硬手段に出る。

まさに本に書かれているように、このクーデターにより 、
平家の権勢は頂点を迎えたが、武力による政権の掌握は、没落への序章でもあった。
つまずきの始めは、「高倉上皇の」嚴島御幸であった。
続いて、後白河第三皇子「以仁王」の謀反、謀反はすぐに平家の知るところとなり、発覚から わずか二週間ほどで鎮圧されたが、事態が切迫していることを感じた清盛は、福原遷都を急ぎ行うが、未完に終わることとなる。
福原遷都の失敗は、清盛 の権威を失墜させた。
京に戻った清盛 は、さっそく諸国の反乱鎮圧にかかるが、
突如発熱にみまわれ 六十四年の生涯を終えることとなる。
清盛 が遷都を急いだのは、平家の血を引いた安徳天皇を始祖とする新王朝の幕開けを、高らかに宣言する意図が込められていたのだろうという。
また同時に、遷都と言う荒療治により 旧体質や、しきたりを一新しようとしたのだろう。真の意味での清盛の独裁政治は、このときから始まった、と言えるらしい。

以上の文章は、本書の言葉を抜き出したものだが、
この本を読んで行くと、建春門院 「滋子」の死が「後白河」を、嫡男「重盛」の死が「清盛」を、その変化が、その後の平家の命運までも 変えてしまったと云えないでしょうか。

それにしても この本は 読みやすい。
平家物語を読もうと、いろいろな本に トライしてみましたが、なかなか最後まで続かない。
この本は、詳しい分析を載せながらも、素人でも最後まで 厭きずに 面白く 読み進められます。
白河法皇が父として気遣う気持ち、名前の由来、若い頃の清盛の優しい性格、日宋貿易にかける清盛の型破りな個性と、時代の先を見通す先見性、国際性、福原にかける夢、瀬戸内航路の整備の重要性、雨乞いや人柱などの旧い風習や迷信にとらわれない清盛の性格、平家物語の成立と構想の謎、目からうろこは 物語と史実、事件の検証と検討、
この本に紹介される、様々な説話や日記、エピソードが 特に面白い。
清盛の家族紹介や女性関係も、清盛像に近づける。
NHKは、こちらの本を参考にしたら良かったのに、とさえ思えてくる。
しかし、清盛や平家一門が「破壊と竜神の一族」で、
「武家の世」と言う「新しい時代」を開くために清盛が、悪行を一身に背負って「世界を解体に導く巨人」として位置づけられているとは、驚きの説である。

この時代、源氏が武力を主として 目先のことばかりを追っているのに対し、清盛は壮大な夢を追って、平家の、しいては日本の将来の展望と発展を夢見ていたのではないでしょうか。
この源平の差は何でしょう。
「東」と「西」、西は常に大陸、異文化からの影響がある。
そう考えると、最近の若者の意識調査 
『海外に出たい人が少ない』は、小さくまとまった
『源氏タイプ』と言うことでしょうか。
親、兄弟、親族で足の引っぱりあいの結果
亡んでいった源氏。
小国 日本、島国 日本の若者よ、
大海を目指さない「井の中の蛙」状態に満足していると、
今の日本の政治家たちのような
『内弁慶』になっちゃうぞ〜!!
清盛のように夢を追って、
外の世界に飛び出してくれ〜!! 






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