『夕顔の恋』 (最高の女のひみつ)  林望

『夕顔の恋』 (最高の女のひみつ)  林望

『夕顔』・・著者の言葉を借りると、
主人公 『光源氏』 に、
痛切な蹉跌と、深い後悔を齎した稀有の女、
とのことです。

本文では「色好み」の貴公子たちの性癖について、
光源氏も、頭中将も、
「上の上」なる正妻を持っていながら、
『なぜ満足できず、冷淡なのか!?』 と、問い、
『いつも美味しい高級料理ばかり食べていると、それに飽きてしまい、“ゲテモノ料理”やら“イカモノ“やら“珍しい郷土料理”など、とにかく人の知らない珍物に、食指を動かす。“女も同じである”』 と、答える。

つまり、光源氏や頭中将にとって「上の上」の女では、
あまりにも当たり前
すぎて、面白くない。“飽き飽き”してしまう、と、言うことらしい。
ゆえに、「色好き」な男たちは、空想的憧れともいえる、伊勢物語の中にあるような、
『思いもかけないあばら家に、ひっそりと隠れている美人 「らうたげならむ人」との出会』に憧れるというのである。

そうした下準備の話が終わって、頭中将の話が始まる。
「夕顔」登場である。
「女らしく、どこか秘密の場所の、人知れぬ荒れ屋敷に住んでいて、男に従順で、情け深く、美しく、閨房のことも、よほど味わい深いらしい」
話す彼の“ただならぬ態度”に、源氏の心は擽られる。

「雨夜の品定め」での「中の品」の女に関する話が、
こうして 一つ、一つ、繋がり、
最後に『夕顔』のイメージを少しずつ“ほのめかす”効果がある、と著者はいう。(なるほど、納得である!!)

確かに、この「雨夜の品定め」、
話は『光源氏』のこれからの女性遍歴の予告。
しかし、この男たちの井戸端会議で、
紫式部はいったい何を語りたかったのでしょう。
あれだけ長~い文章の末に、
頭の中将の結論ときたら、
理想的に言えば、このさまざまな女の良いところだけを頂戴して、まずいところが一切無いのがいいが、仮にそんな理想的な女がいたとしても、こんどはそういうのをにしたらしたで、さぞ真面目くさって詰まらないだろうなあ、それもまた困りものだよね」と、皆で笑う始末。
この人物は、「藤壺」かな?と、思いながらも、
「なぬ―! おち は、そこかい!!」 と、言いたくなる。

左馬頭の締めくくり、
「すべて心のうちに弁えていることでも、知らないような顔をしてやり過ごし、言いたいことも、すべて言うのではなくて、そのうちの一つ二つは言わずに置くというのが、あるべきすがたでしょうなあ」
ここに至ってはもう、この人は「紫の上」しか思い当たらない。詰まるところ、この男談義
「ないものねだり」
「他人の女は良く見える」
と、いうことなのか

「光源氏」にとっての「夕顔」の魅力を、
著者は、「らうたげならむ人」だという。
「らうたし」の意味は=「どこか頼りなく、従順で、どうしても保護して労わってやらなくてはいられないような、繊弱な女らしさ・・それが、夕顔の魅力である。男にとっての永遠の青い鳥のような女。」と、書かれている。
源氏の周囲には、どの君もどの君も、我こそはと、気取りに気取って、その嗜みの深さやら、気位やらを競って見せる。そういうことに、源氏はほとほと“うんざり”している。そうなるとまた、夕顔の、優しく、人懐こく、自分に心を許してくれた人柄が思い出され、いつまでも恋しく思い出す。「らうたげならむ人」源氏にとって夕顔は、永遠に「らうたげなる」偶像(アイドル)であった。とのこと、分りやすい説明だ。 

また、巻軸(エピローグ)でも著者は夕顔のことを、
『女として見れば、無限の魅力、敢て言えば男を蕩かしてやまない魔性を具えた女、それでいて、無類に臆病で、弱虫で、男が労わってやらずにはいられなかった女、誰に対しても従順で、どこまでも優しく、男を責めない女、子供っぽい甘えと男を夢中にさせる性愛の爛熟、つまりは成熟した肉体と世慣れぬ心の矛盾を内在させた女、夕顔はそういう女であった』と、評している。驚くべき解釈だ。

なるほど、これでは若い光源氏は“イチコロ”であったろう、ことは分ったが、まだ疑問が残る。
つまり、そんなに「らうたげならむ人」が、
自分から、見ず知らずの男に歌を贈るだろうか。
しかも、念入りに “わざわざ、しっとり香を焚き染めた白い扇”に、“歌”を書いて、贈ったりするだろうか。
これはもう、自分から誘っているとしか思えない。
まさに遊女のとる行動と思えてくる。

しかも紫式部は、わざわざ 「返歌がなかなか来ないので、バツの悪い思いをしていたが立派な使いを立てて返歌が来たので、大騒ぎして喜んでいた」 と書いてる。
そこらへんの理由がいまいち分らない。
「らうたげならむ人」のイメージと、重ならない。
私のは、まだ続きそうだ。

ひっそりと身を隠していたはずの、夕顔。
惟光の話では、身分も用心深く隠していたとか。
それなのに、である
私の勝手な解釈から言うと、こんな行動力のある夕顔は
「らうたげならむ人」ではなく新しいパトロン探しをする
『たくましい()女』 にさえ、見えてくる。

どちらにしろ、
光源氏の話の中に、夕顔の魅力は語られている。
「あやしきまでに、今朝のほど、昼間の隔ても・・・」
著者の解説によると
「源氏は恋を知らぬ男ではない。
それどころか、ありきたりの恋では飽き足りないような「色好み」というわけなのだから、
女のことは人並みならずよく知っている。
普通だったら女の閨から戻ってくると、
当分はその女のことは恋しいとも思わないのだが、
夕顔に限っては、決してそうではなかった。
逢っているときは嬉しい、いとしい、可愛い、
それで抱けば房事は味わい深くて、気持ちよくて、抱いても抱いても飽き足らない思いがする。
可愛くて、おとなしくて、上品で、美しくて、良い匂いがして、しかも閨房のあしらいは巧みで、いつも夢中にさせる。
しかも男に従順で、決して責めたり恨んだりしない。
こういうあたりが、夕顔が“娼婦めいた女”らしく見られるところだが、そうではなくて、
いわば男の恋のIDOL、見果てぬ夢のような存在だ」・・なるほど、これはもう説明というより、光源氏の話=著者の夢=男の願望=夕顔のようだ。 

疑問に思えるところは、他にもある。
紫式部は、これでもか、というくらい「夕顔」を、男好みに仕立てておきながら、
わざわざ、“彼女の顔つき”について、
「そこと取り立ててすぐれたることもなけれど」
あっさり斬り捨てている。
「この女の魅力は、顔が美しいというのとは違う」と、
はっきりと示したかったのだろうか。・・・?
上げて、下げた理由とは?
私の灰色の脳細胞で、考えられる事と言ったら、
当時の読者である「上の上」の姫君たちと、
スポンサーである道長へ配慮したのだろうか??
「さんざん持ち上げておいて、何故・・落とす??」

どうでもいいことだが、
そうすると、その子供「玉蔓」は、顔が「美しい」と、
あれだけ大騒ぎされていたのだから、
父親似ということになるのだろうか?
源氏は玉蔓を、夕顔似と言っていた気もするが・・?
そう言えば、女三宮と柏木の子「薫」を、光源氏は、
自分の孫たちより美しい(と言っていたような??

「ふ~む??」
また分らなくなってしまった。
この本、分りやすい、と思って読んでいたけれども、
そこらへんは、どうなんでしょう!? 








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